ユング自伝-プロローグ

前回のユング自伝-はしがきに続くのがこのプロローグである。

このプロローグではユングの
「私の一生は、無意識の自己実現の物語である。」
という言葉から始まる。

心理学において、無意識はとても重要な意味を持ってる。

フロイトの無意識の発見より、人間の意識には自分で認識している「顕在意識」と自分では認識していない隠れた意識「潜在意識」が存在することが知られるようになった。

そして、この「潜在意識」のことを「無意識」とも言う。

意識のほとんどは「無意識」が占めており、「顕在意識」は意識のほんの一部に過ぎない。

一般に意識は氷山にたとえられ、意識は海上に現われている部分であり、無意識は海の中に隠れている部分である。

そして、ユングは無意識の中にある全ては、外界に向かって現われるとし、人格も無意識から発達したものであると述べている。

ユングはまた
「人間の本質的な性質(我々はいったい何なのかという問題)については、科学では扱うことができず、むしろ神話を通じて語ることができる。」
と言う。

ユングは人間の意識を探る上で、太古からの神話がとても重要だと考えた。

ユングは、人間の本質がこれらの神話の中に現されており、それを探ることによって、人間の本質を理解できると考えたのだ。

「今83歳になって私が企てたのは、私個人の神話を語ることである。」と言う。

ユングは自分についてもまた、神話という形を使って表現しようとしたのではないだろうか。

また、
「自伝を書くにあたり、難しいのは、自分自身を判定するための客観的な標準や基礎がないことだ」
とも語る。
そして、ユングは自分自身がほかの人と似ていないと感じていたようだ。

なぜ、そのように考えていたのかは、不思議だ。
ユングは人間と神との関係について
「あらゆる生き物は人間と同じように神から分かれたものである。しかし、人間より上に達しているのは神だけであると語る。」
と語る。

ユングの中の宗教的な考え方は、「神」→「人間」→「動物」という順位の、キリスト教の基本的な宗教感に根ざしていることがうかがえる。

キリスト教的な考え方においては、
「神は人間に、動物やその他のものを支配する権限を与えた」
と言うことになっている。
だから、人間は動物を支配できると考える。

しかし、自伝の中にもあるのだが、ユングはまた、別の考えの存在も感じていた。

それが、後に、東洋的な考え方、易占いや錬金術の研究にも繋がったのだと考える。

実際、ユングはチベット仏教の経典「死者の書」に触れ、感銘を受けることになる。

「人間は、人間が統制することのない、あるいはただ部分的に支配するに止まる心的過程である。」
とも語る。

たぶん、人生が大きな流れの中のほんの一部分に過ぎず、通過点だと感じていたのではないだろうか?

であるからこそ、チベット仏教の経典「死者の書」に出会ったとき、そのことに確信したのだと思われる。

ユングは生まれ変わり、「輪廻(りんね)」を信じていた。この世で存在する人生はほんのつかの間のことだと考えたのだろう。

「自分自身や我々の一生について最終的見解を持たない。」と言う。

ユングは人生についての最終的な結論を出すことはなかった。

また、
「一生の物語はたまたま思い出した特定の点ではじまり、一生がどうなるのかも知らない。それゆえ、その物語ははじめがなく、また終わりも漠然としている。」とも語る。

人間がこの世に生まれ、たまたま意識や記憶が発生した時点から、人生という物語が始まり、終わり方もはっきりしていないと考えていたようだ。

ユングはこの自伝の中で、自分の臨死体験についても語っている。

彼にとっての死は、はっきりした境目のない現象と捉えていたのだろうか。

「人間の一生は心もとないひとつの実験である。」

ユングは人生自体がある種の実験に過ぎずないということを、医学生だったころから考えていたようだ。

「私が成人するまでに滅ぼされなかったことがとても奇跡的なことのように思った。」とある。

だいぶ理解に苦しむ部分だ。誰に滅ぼされるというのか。また、彼自体が滅ぼされると思っていたのか。それとも、彼の思想が滅ぼされると思ったのだろうか。

ここにも、自分が他の誰とも似ていないという一種の孤独感が現われているように思われる。
自分の一生が地下茎(ちかけい)、地下に張り巡らされた茎によって生きている植物のようだと言ったり、自分の本当の生命(いのち)は地下茎の中に隠れて見えないのだと言ったりする。

また、
「いのちと文明との果てしない興亡を考える時、我々はまったくつまらない」とも語る。
「我々が見ているのは花であり、それは過ぎ去るが、その根は変わることがない。」

ユングは目に見える移り変わるものの他に、目には見えないが決して変わることのない、根源的なものがあると信じていたのだろう。

「一生の中で話す価値がある出来事は、根源的な不滅の世界が、この世界にほんの少し現われたものにすぎずない。」
とも語る。

そして、それは、ユング自身自分の夢やヴィジョンを含む内的体験を主に語る理由だと述べている。

自分の内的体験を語ることは、ユングの科学的な仕事の一番重要な要素になっていると語る。

また、
「それは研究されなければならない石が、結晶していくやけつくような岩だった」とも語る。

この表現は私の理解に苦しむところだ。

研究されなければならない石とは何を指すのか。
「心」を指しているのだろうか?

結晶していくとは、整理され発展していくことを示しているのだろうか。

「心」という石が、集まり結晶し、大きな岩に発展していく。

その岩とはどのようなものなのだろうか。

私はユングは「心」発展させていった先に、物質的なもの(物理学)との融合があると考えていたように思う。

「心」と「科学」の統一理論のようなものを思い描いていたのだろうか。

「私の一生の外的な出来事についての回想は、大部分色あせ、消えうせてしまった。けれでも「他」の現実との出会い、私の無意識との勝負は消しがたく私の記憶に刻み込まれている。」

ユングにとって外的な出来事はたいして重要なものではない。
自分の中の無意識と闘っていたのだろう。
ユングは無意識について研究をした。
そのことの方が重要なのだと考えていたのだろう。

そして、このプロローグの締めくくりとして、

「私は内的な出来事にてらしてみる場合にだけ、自身を理解することができるのである。私の一生の特異さはこのことに由っており、私の自伝は実にこれら内的な出来事を取り扱うのである。」

ユングにとって、周りで起きている出来事はあまり重要では無いと考えていたことは確かだ。
だから、自伝では内的なことについて、書いた。
それは、他の自伝とは根本的に異なるものだ。

ユングは「心」について深く研究した。
また、心を取り巻く世界についても、普遍的な科学という視点で独特な研究をしていた。それが、錬金術であり、共時性としての易占いである。

ちなみに、共時性とは、因果関係を超えた関係性であり、まったく違う動きをしながら、どこかで繋がっているというような、不思議な世界を現している。

科学の基本は「因果関係」にある。
ユングはその「因果関係」を超えた何かを求めていた。
結局、ユングはそれが何なのかを突き止めることはできなかった。
その何かを「共時性」という関係で表現している。

「共時性」についての説明は、今回の趣旨から外れるので、この辺で終えることにする。
次回は、ユングの幼年時代についての記述に触れることになる。

ユングの幼年時代はとても謎めいており、興味深いことが書かれているので、楽しみしていて欲しい。

 

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