事故はいつでも想定外

まず、「セレンディピティと近代医学」(モートン・マイヤーズ)の一節を少し長いが読んでいただきたい。

============================================
バーリ港の悲劇 マスタードガスを抗がん剤に

1943年の終わり、連合軍は北アフリカとシチリア島での勝利を受けて、イタリアに侵攻する。イタリア南東部、アドリア海に面したバーリ軍港は、上陸部隊を支援するため、何千トンもの弾薬や航空機用ガソリンを連ぶ連合軍のタンカーと輸送船がひしめき合っていた。1943年12月2日、全ての桟橋に船が入り、あぶれた船は岸壁全体にわたって係留され、荷揚げを待つ。アメリカの輸送船ジョン・ハーペイは、港の東にあった桟橋に係留されていた。港は混雑し、船は互いに接触するくらい密集して舫われ、輸送トラックは巨大な倉庫まで長い列を作った。
当時東部イタリアはイギリス軍が制圧していた。夜も荷揚げ作業があるため、灯火管制はしかれず、むしろ港は照明で昼のように明るい。イギリス軍は、イタリアにいたドイツ空軍は壊滅しこの地域に対する脅威はないものと確信していた。英国空軍司令官アーサー・カニンガム卿は「この地域にナチスの空軍が何らかの行動を起こしてくることはあり得ない。私の名誉に賭けてもいい」と公言さえしている。彼は敵を見くびっていた。
実際、イギリス空軍(RAF)はバーリに戦闘機部隊を配備していなかった。一方ドイツ軍は、バーリ港の積荷が連合軍にとってどれだけ重要であるか分かっている。ドイツの偵察機が輸送部隊の到着と港の混雑ぶりを報告すると、北部イタリアに散らばるドイツ空軍基地から急ぎ爆撃機が集められ、夕暮れ時に東方からバーリを攻撃するよう命令が下された。
12月2日夕刻、105機のユンカースJu88爆撃機が海面を滑るように入り、バーーリ港を急襲した。攻撃は2020分間。爆破するのは2,3隻でよかった。弾薬、燃料など大量の積荷のために、一隻が爆発すると隣も爆発し、誘爆は次から次へと続いた。壊れたパイプラインから漏れた石油、ガソリン、そのほかの積荷が燃え、港の水面は炎で覆われた。
アドリア海に放り出された兵士たちは、必死に泳いで逃げようとする。海中で、あるいは救命ボートで人々がもがいているとき、連続する爆発で油まみれの海水が波となり、ひっきりなしに降りかかった。油は体を覆い、目や鼻、喉にも入る。渦巻く煙と炎で呼吸困難になるものも出た。
この大混乱の中で、奇妙な臭いに気がついた者がいる。港で生き残った人々の何人かはニンニクの臭いのおうだったという。思い煙の雲が港を越えて街中に流れると、ドイツ人捕虜がアメリカのの憲兵に完璧な英語で言った。「マスタードガスの臭いがするが……」。憲兵は驚き、深く息を吸って咳払いをした。「バカ言うな!ニンニクだ」
急ごしらえの救護部隊は、油に覆われた冷たい海から1000人以上を引き上げた。助けられたものは毛布に包まれ、間に合わせの仮救護所で床に並べた担架に寝かされる。多くは火傷を負っていた。救護スタッフは運び込まれる死傷者を全力で捌く。混乱の中、油まみれの服を脱がして体のヘドロを洗うような暇はない。彼らは着替えることもなく、24時間、毛布にくるまれただけで放置された。
まもなく多くの者が新たな症状を示した。目が痛み、涙が止まらない。まぶたが痙學し見ることができなくなった。肌には茶色の浮腫が出たが、最初は痛くない。しかし後には皮膚がごっそりむけた。最も驚いたことは、何人かが変わったショック症状を見せたことだ。拍動が弱く血圧も極端に低いのだが、典型的なショックの特徴を見せない。医師は男たちが皆平静なのにも驚いた。よく見られた例であるが、ある患者は脈が取れないほど血圧が低いのに、気分は悪くないという。しかし彼はすぐに、静かに死んで行った。
生存者のうち4人は初日に死に、9人が翌日、11人が3日目に死んだ。自分自身でオイルを洗い落とし、おそらく服も着替えた数人だけが、この簡単な行為で助かった。この月の終わりまでに83人が死んだ。生存者の多くが目が沁みると訴えていたので、ドイツが化学爆弾を落としたのだと強く疑われた。
29歳のスチュアート・アレクサンダー中佐は、化学戦の訓練を受けた医学士官だった。彼は当時アルジェリアのドワイト・D・アイゼンハワー率いる連合軍司令部のスタッフで、11月7日、調査のためバーリに派遣された。彼はバーリの病院に入るとすぐに異様な臭いに襲われた。なんだろう。ニンニクだろうか? アレクサンダーは2年ほど前、マスタードガスの研究をしていたとき同じ臭いがしたことをすぐに思い出した。
患者を診察するとまず異常な皮膚の潰瘍に気づく。彼は化学兵器の毒が兵士の皮膚に触れたのだと確信した。火傷は明らかに海面に漂っていたオイル状物質に触れたところに起きている。オイルに浸って次に毛布にくるまれた者は全身が火傷していた。足、あるいは手だけオイルに触れた者は、火傷がその部位だけに限定されている。水しぶきを浴びた者はその場所だけ第1度か2度の火傷になっていた。火ぶくれが背中や胸に筋のようになっているのは、汚染された海水が滴り落ちた跡だった。黒い煙に包まれた者は、肌、脇の下、股間に蒸気火傷があった。
アレクサンダーは考えた。もし化学兵器が液体マスタードだったら、海水で薄まったときに、港の場所によって濃度もさまざまになり、それが普通の濃いマスタードとは連う作用、さまざまな作用を引き起こしたのではあるまいか。
起きたことの原因を突き止めようとする中で、二つの情報が彼の判断を誤らせた。イギリス軍当局は港にいたどの船も化学兵器を積んでいなかったと言う。また、空襲から3日目、4日目に海底から回収されたマスタードを含む爆弾の外筒はドイツのものだとされた。
アレクサンダーはいったい何か起こったのか徹底的に追求した。まず船の積荷目録を調べ、マスタード兵器に関連するような積荷を探した。また港から回収したオイルサンプルの化学分析、患部の組織検査を命じ、各船舶の係留位置を示す港湾地図を作成させた。組織検査の結果、火傷は熱だけではなく化学的に起きたものであることか示され、肺の損傷は毒性性ある蒸気によることが分かった。
港湾地図は病院での死者と船の関係を決定的に示し、毒による死者は、ジョン・ハーペイの近くにいた人が最も多かった。もう一つ決定的な情報が得られた。回収された爆弾の外筒はドイツ製ではなく、アメリカ製だったのである。最終的にイギリス軍港湾司令部は、停泊していた船舶の真ん中にいたジョン・ハーペイがマスタードガスを100トンも積んでいたことを認めた。この船の乗組員は一人も助からなかった。港湾司令部は、毒ガス災害で大混乱のなかを奮闘する医学スタッフに情報を与えないという大失態を演じた。アレクサンダー中佐は秘密にされたマスタードガスの存在を一歩一歩明らかにすることを強いられたわけだ。
毒ガス戦は1925年のジュネーブ議定書で禁止されていた。にもかかわらず、第二次世界大戦の始まる前からドイツと日本が毒ガス戦の準備をしていた情報をアメリカはつかんだ。そして連合国が欧州南部へ侵攻した場合、ヒトラーは毒ガス使用に頼る戦術を計画しているという不吉な報告がなされ、大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルトは、1943年8月、これに関して連合国領の対策を発表した。ルーズベルトは、そのような非人間的な兵器を批判したあと、次のように警告する。「アメリカは同じ方法で最大限かつ迅速な報復を行う……従って、枢軸国側のいかなる国も、毒ガスを一度でも使用したなら、その国の全領土にある軍需工場、港湾を合む軍事施設はただちに報復を受けるだろう」。その結果マスタードガスが世界中のアメリカ軍兵站部に貯蔵されることになった。
===========================

セレンディピティと近代医学―独創、偶然、発見の100年/モートン マイヤーズ

¥2,730
Amazon.co.jp

この中で大事な点をまとめると、

1.マスタードガスが味方のものであること。
2.ドイツ軍は数発の爆撃で致命的な打撃を与えられた。
3.ドイツ軍は攻撃して来ないと想定していた。
4.一度事故が起きると致命的な被害になる。
5.マスタードガスがあることを知らせなかったために被害が拡大した。

そして、もっとも大事なことは、

起こらないと誰もが思っていることが起きてしまうということだ。

今、問題になっている原発に当てはめて考えてみよう。

原発は敵ではなく味方(日本)が所有している。

ドイツ軍が攻撃してくることはないだろうが、
例えば北朝鮮だったらどうだろう。

または、テロだったらどうだろう。

現にアメリカで同時多発テロは起きている。

航空機が武器になる。

テロリストが作業員にまぎれて破壊工作をすることだってできる。

現に拉致事件は起きている。

それを防ぐ手はあるのだろうか?

また、自然災害は地震や津波だけではないだろう。

台風、竜巻、落雷、隕石や衛星の落下・・・・・

小さな隕石ですら、建物を簡単に貫通するだけの威力があり、それを事前に予測することはできない。

人は必ずミスをする。

機械は必ず誤動作、故障をする。

マスタードガスはいずれ無害にある。

放射性物質はいつ無害になるのだろうか?

10年先?

100年先?

いや1万年先、10万年先だ。

原子力は安全だ。

安全なんだ。

そう、

事故が起きなければ・・・・・

故障しなければ・・・・・

ミスをしなければ・・・・

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

カテゴリー: 社会とテクノロジーのコラム パーマリンク